働くオカンの思考を解剖したらこうなりました

働くオカン(三姉妹の母)の思考 From 2013.10.21 to 2015.04.07

大人になるということは、何かを背負うという事なのかもしれない。

子供を見て育てていて、そして自分を振り返ってみた時。

ふと思うのだ。



ゼロ歳児には、何も背負うモノなんかあるわけがない。

ちなみに、背負うってのは別の言い方をすれば「責任」の事になるのではないかと思っている。

一歳児になると、自分で食べるなど多少の事ができるようになる。でもだからといって、それを背負う事はない。ヤダ!と言えばまだまだ親がブツブツ言いながらもしてくれる。

二歳児になると、更に出来ることも増えてくる。でも、どからと言って自分で服を着る責任も、自分で食べる責任もない。ブツブツ言いながらも親が手伝ってくれる。



それが、いつの頃からか自分でする事に責任が着いてくるようになる。

もちろん社会的責任なんかは子供時代に背負う事はない。それでも、自分で食べる。着替える。風呂に入り頭や身体を洗う。片付ける。整理する。学校の用意をする。掃除する。お手伝いをする。


と、年齢に応じて少しづつできることを増やしていき、出来ることに責任を背負う。


つまり、任せられ始める。



これは、自由選択とのバランスをみつつ、親が采配する事から始まるように思う。

徐々に自由には責任が伴い始めることを肌見に感じ学ぶ経験を通して理屈じゃなく理解していく。



私は、これを失敗したな。
と、1号をみていると感じるのだ。


彼女の4歳からの数年は、魔の数年であって。
私にとっても、振り返りたくもない魔の数年でもある。


そう。
田舎暮らしの数年で、いわゆる虐待まがいな数年であった。


この時、彼女が4歳というのお年頃なのも手伝い自由と責任を少しづつ学び開始する時期であったはずだ。


そこで行われたのは真逆だった。
この先にある事を真似だけはしないでもらいたい。バーーカ!と一蹴するくらいが丁度いい。



私が指示した事の責任は、私がとる。
あたりまえだ。

指示通りにできなければ、指示の仕方が悪いのだ。指示した相手の技量を見誤ってるだけだ。

しかし、当時は、そんな当たり前の判断なんかできる精神状態ではなかったので、このようになる。


何もかも。
1号が全て悪いのだ。

指示通りにできないのも。
失敗するのも。
何かの事情も。
2号が泣いても。

1号においては。
何もかもの自由を奪い。
何もかもの責任は押し付けた。


あの時くるった歯車を、正すのには時間がかかる。


頭でわかってはきているが。
実感や体感が伴わないのか、頓珍漢なのだ。


好きにしていいよ。
選んでいいよ。
自由にしていいよ。
甘えていいよ。



で戸惑う。
指示を待つ。



もういっそのこと。
彼女を叱るのも指示するのも管理するのもなにもかも放棄した方がいいのではないか?


彼女の思うがままするがままを、全て許し受け止め実行させた方がいいのではないか?


一度無に返してから、もう一度丁寧に育てて行った方がいいのではないか?



そう思うのだ。


しかし、これを実行するとなると。
自由と責任のバランスが取りながら成長してきている2号と3号にどのように説明が難しい。


それに、年長者である1号のプライドもある。



この狂った歯車を正せないまま時が過ぎていく。
悩まし現実だ。



なので。
虐待には、皆様ご注意ください。

マタニティブルーとか産後ブルーとかクライシスとかいろいろあるけど。

身近な人で虐待に気付いたら手を差し伸べてあげてください。

後から正常に戻った時に、自分の誤ちと対面した時からがマジです修行ですよ。


と、なんとなく2時間も電車に乗ることになったので、つらつら書いてみたエントリー。

さ、乗り換えます!
さらばじゃっ!