怒られなじられ何クソと思うと言うことについて考えた仮説
ふと気付いた仮説なので、断言は出来ない。ただ、自分の経験を通して、また私の周囲にいる人を見ていて、漠然とこの仮説が浮かんできた。
主人公は厳しい親の元に生まれ育ったAとしよう。
Aは、親、先生、先輩、上司などの目上の立場のBに怒られた。なじられた。バカにされた。
Aは「ナニクソーー!!!テメー(B)になんかに言われたかねーーよっ!!!」と奮起した。見返すために努力した。成長した。
A'は、凹みやはり僕にはムリだ。何やっても上手くいかない。ダメな奴なんだ、僕は。と、成長を止めて逃げた。
はい、ここで仮説です。
ここで挫折してやる気をなくすA'とナニクソ根性見せるA。
A'とAの違いは何なのか?
私は、A'もAも自己肯定感が高いとか低いとかの差はあまりないのは変わらないと思うんだけど、祖父母やらからのどこかで、自己肯定感を多少でも育んでもらっているのでしょうか?
厳しい親だと自己肯定感って育ちにくいですよね?
ふと、この奮起するというのは、自己肯定感ではない気がすると、思ったのです。
あ、これは、自己肯定感を否定するつもりはありません。
仮設としては「生まれ持った客観性を供え持っている」という自己の認識が上手い子。ついでにいうと、図太い(笑)繊細な子じゃなかったってのもある気がした。
ただこの一点な気がする。たまたま運が良く持って生まれたエルサの魔法みたいなもんじゃないかと考えた。その子が持って生まれた生き抜く力。生命力のようなものでしょうか?
その上で、更に付け加えると。
AはBを見下しているのではないか?バカにすらしているのではないか?ケチョンケチョンに踏み潰したいのではなかろうか?客観視する能力があるので、自親のドアホ具合を見抜いている。自分の置かれている環境を子供ながらに把握している。
かつ。
Aには、B以上になれる力を自分は持っていると、客観的な自己分析能力を生まれつき持ち合わせているのでそこに希望を見出す。いわゆる、根拠のない自信のようなものを持っているのではないか?
これは自信があるという前向きな意味合いではなく、Bには勝てるという客観的な自己分析と、Bに対する憎悪と自己に対する希望の結果では無いかとも考えた。
つまり、これって親が最低である事が必要条件なのではないか?
逆に、親がどれほど家庭内で最低でも外面的に地位や名誉があるとまた違うのかもしれない。とも、思った。
ようは、怒って怒りエネルギーで伸びた子は運が良くエルサの魔法を供えてこの世に生を受けた。ただこの一点のみの功績でしかなく、万人に用いるのは危険な方法でしかないのではないか?だから、自己肯定感を育てよう。と、仕切りに児童精神科医などは言うのではないか?と、思うに至った。
これが私の仮設です。
家庭が安定し自己肯定感を育て、子供の成長を見守る。helpではなくsupportして成功体験をさせていく。
地道にこれしかないんじゃないか?と、私は思って日々奮闘している。という私も、うまくできない日もある。声を荒げる時もある。上手く促せない時もある。それでも、トライアンドエラーを繰り返し自己肯定感を育む対応をしていく。
それしかないのではと、思っている。
なぜ突然、こんな事を言い出したか?というと。
某オッサンが仕切りに言う「怒鳴らないとわかんねーんだよ!」という感情を抑えられなくなる時が今もある。かなり最近は減ったのだが、まだ顔を覗かせる。
トリガーは様々な些細な出来事だったりする。それこそ、ふざけてもなくうっかりとお茶をこぼした子供に。とかね。
そして、オマエは甘い!!過保護だ!!
と、吠える。これはセットだ。
まぁ、ワタクシ弱くないしー
反撃するしー
子供かばうしー
某オッサン攻撃するしー
結果、大炎上する事もままあるんですけど。
なんだろ、オッサンが吠えるのは勝手ですが、手塩にかけて娘の自己肯定感を再構築中なのをぶっ潰されるとか、本当に迷惑だし、ここで見て見ぬ振りして加担者になるのはもっとイヤなので、娘側に立ちかばうんですけど。
なんだろねぇ、これ。
ここに某オッサンの根深いモノと歪んだ成功体験を想像してしまうのだ。
オッサンは努力して這い上がったんじゃないかと思う。家族の様々な歪みの中、たくさんの感情に蓋をし鍵をかけ、這い上がってきたんだとは思う。
そういう複雑な家庭で育ち歪んだ成功体験を持ち続けているような気がしてならない。
もう一つ言えば。
複雑な家庭であるという事を受け入れられてない。そこを指摘したら発火する。なんでもかんでも、それに結びつけるなと。
確かに私は、なんでもかんでもそこに結びつけては因果関係をそこに持って行ってる感は否めない。
しかし、あんな家庭や環境じゃこうなるよね。
としか思えない複雑さであると、他所から来た他人の私から見るとそう映る程に複雑だ。
オッサンは怒られ怒鳴られ成功したかもしれない。要領よく立ち回り、難を逃れたのかもしれない。
しかし、オッサンと我が娘は別人格である。しかも娘は3人もいて三人三様なのだ。
怒るな。
𠮟れ。
怒鳴るな。
促せ。
命令するな。
導け。
そして、今すぐ出来ると思うな。
結果を即求めるな。
期待するなとは言わないが、即できるとは思うな。時間が解決することもある。年齢による脳や身体の成長で出来ることも多い。
また、いつか本人が自分で気付くその日を待つ。それまで、うまくサポートしていく他ない。口酸っぱく何度も同じ事を静かに注意する他ない。
そう私からすれば思うのだが。
オッサンには、これが甘えてる。甘やかしてる。過保護だ。子供は親の言う事を守るべきだ。に、囚われてる瞬間がある。(そうでなく物静かな時もあり、私に賛同し実行する時もあるからややこしい)
オッサンの厄介な所は、冷静で私と二人で夜の会話をしている時は、よくよくこの辺りを理解している点にある。
恐らく頭では理解しているんだろう。
しかし、咄嗟のその瞬間は心が先に動いている。
それこそ、まさに子供と一緒で。
言い聞かせてわかったつもりになってる子供は、その時がきてもとっさに正しい行動ができない。のと、何が違うのか?
と、見てて思うのだけど。
まだまだ難しいようだ。
オッサンは、エルサ魔法の使い手だったのだろう。
怒られて伸びるタイプだったんでしょう。窮地であり崖っぷちであるなか、本当に苦労してここまで来たのだろう。
でも、我が娘は違う。
しかも一度心が折れてる。(折ったのは私だけど)
その繊細な心を大切に扱い、穏やかにゆっくりと成長していけばよい。
いつか、本人が伸びたい!!成長したい!!
この分野は怒鳴られても楽しい!!
と、思えるその日が来るまで、家庭では怒鳴ることなく穏やかに生活をさせてあげたい。
自己肯定感、本当に大事だとおもう。
大好き!
一緒にいると楽しい!
可愛い!!
面白いね!!
最高だよ!!
こういう言葉を浴びせ続けて子供からウザがられるくらいになればよいと思う。
親の愛はあたりまえ。
あってあたりまえ。
そういう基盤であって、いちいち感謝されるものではない。よく結婚式とかで、ここまで育ててくれてとお涙頂戴な事を聞くが、そんなものは要らない。当たり前でいいんだと思う。
こう思うに至ってもらいたい。
某我が家のオッサンを見ていて、ふと思いついた仮設を、長々と書いてみた。
おやすみなさい。