働くオカンの思考を解剖したらこうなりました

働くオカン(三姉妹の母)の思考 From 2013.10.21 to 2015.04.07

4年前を思い出してみる(震災とは無関係です)

3.11から4年も経ったというニュースを一昨日知り。そうか、アレからもう4年も経ったのか。と、当時を思い出した。

さて。
ここから先は震災とか無関係ですし、3.11とは無縁の私の思い出話しになるので、ご了承頂ける方のみ読み進めて頂ければと思う。

以前もどこかのエントリーで告白しているが、私は某村に佇む義実家で完全同居をしていた。3.11当時も完全同居で辟易していた。辟易してるだけならまだいい。鬱憤が溜まり活火山化しており、何もかもに我慢できず、些細なことで自分を止められない程の怒りが爆発していた。子供に対しても、義実家家族に対しても、旦那に対しても、某村に対しても、ありとあらゆる事に激怒する程に私の堪忍袋は常に満杯どころか帳面張力でこんもりと膨れ上がった状態が常だった。なので、少し触れるだけで即溢れ返り、怒りの収集が付かなくなっていた。
恐らく当時の私の振る舞いは、子供にも老人へも虐待だったと思う。旦那には逆DVなのかもしれない。怒鳴り散らしては泣きじゃくる、情緒不安定な人間だった。

断っておくが、完全同居前は今程度には落ち着き、底抜けに明るい笑ってばかりの母で妻だったと思う。今も良妻賢母ではまったくないが、ぼちぼちな母で妻なのではないかと思っている。それが、完全同居後に急変している。この時期だけが異常だった。


そんな私を一番心配をしてくれていたのは、私の母方の祖母だ。そして、私の母の兄である叔父と叔母だった。

祖母と叔父と叔母は母屋と離れではあるが、水周り一緒の完全同居のような暮らしをしていた。

お手本のような仲睦まじい完全同居の姿がここにある。菩薩のような祖母に義理人情の叔父と優しさと誠実さと明るさのある可愛らしい叔母。

山陰の山間にある村に住んでいる。

完全同居で村である事もあり、当時の私の気持ちが痛いほどわかったのだろう。事ある毎に電話をくれていた。

そこで起こった未曾有の3.11の後、原発だ、放射能だ、と、嘘か本当かわからない混乱の最中。

叔父と祖母の提案で
「不謹慎じゃし、ええ機会言うたらバチが当たるんじゃろうけど、そちらのご家族もご理解頂けるような事態じゃけん。」と前置きした上で「子供と赤ちゃんが心配じゃけんな、放射能言うのもどんな影響があるやもしれんけ、しばらくこっち来んちゃい。ひじりにとっても気晴しにもなるし、ひじりも休まんといけんのじゃろ?別にみんな大人じゃけ、ひじりがおらんでも、なんとかするじゃろう。」と言ってくれた。

産後だろうが妊婦だろうが子供抱えてようが容赦ない家事をこなし、育児を一身で背負ってた私。

この未曾有の事態である事より、自分の現在の方が苦しく誰かに助けてもらいたい時期だった。

結果、この話に乗った。
旦那は、この提案をくれた祖母に本当に感謝の限りを尽くしてお礼を言っていた。その姿が印象的だった。

義実家には冷たく、有無を言わさず結果だけ伝えていた旦那の姿を、ぽかーんと見ていた。(ような感覚を覚える)


疲れ果てていた私だけど、安住の地へ行くため小さい子を連れて丸一日かけ新幹線と電車と汽車とバスを乗り継ぎ、祖母の家にたどり着いた。


祖母も叔父も叔母も口を揃えて。
ええんで、ええんで、ひじりは寝ときんちゃい。休んどきんちゃい。子供の面倒も見ちゃるけ。安心して休んどきんちゃい。と、言う。

いつぶりだろう。
こんなに安心しきって寝れたのは。
安心してぼーっとできたのは。
こたつに入って座ってたら、ご飯も出てくる。しかもとびっきりに美味しいご飯だし、子供の事も構わなくていい。


当時、とても大きな問題を抱えていたのは、実は私よりも1号だった。

1号は急変した母、いつも居た父が家に帰ってこなくなり、怒鳴られた事がないのに義実家家族から訳も分からず怒鳴られ、東京では自由保育の園だったのが村の園は管理保育だし、この急変した環境についていけず、すっかり性格が変わってしまっていた。

1号はとてものんびり屋でマイペースで優しくひょうきんでいつも笑顔の情緒の安定した子で、愚図ることの少ない育てやすい子だった。もちろん人並みに自己主張はするがとても一生懸命な自己主張にナゼか周りは和んだ。

怒られたり注意を受けても、テヘっと愛嬌たっぷりの笑顔で「(ご)めんちゃい」と言うので、こちらも自然と笑顔になり「次からは気をつけようね」で終わる。そんな子だった。


しかし、完全同居して変わった。

初めはグズグズよく泣くようになり、だんだん癇癪を起し始め、ついに当時はイタズラしワガママいい泣き叫び暴れ、嘘をつき、隠し、何もかもに怒っていた。当時の私と1号はまったく同じ状態だった。そして最後に必ず「戻りたいよう、帰りたいよう、ココやだよう」と叫ぶのだ。


そんな状態だった1号は、祖母の家でも同じ振る舞いをしていた。

違ったのは、祖母が常に優しく「よう頑張ったな、ええ子じゃな、えらいなぁ」とウンウンと頷き根気強く付き合ってくれた。

叔父はこれでもか!というほど、一緒になって遊んでくれた。家中ドタバタと一緒になって。やんちゃになった1号のキックは痛い。それでも「ええ蹴りじゃなぁ〜、素質あんぞ!こいつは凄いでな!!」と笑って褒め続けた。

叔母は優しく声をかけ「1号ちゃんは何が好きかな?今夜は何作ろうかしら?」と毎回声をかけては夕飯を用意してくれたが、1号は「ふん!マズイ!おいしくなーい!」と可愛げのない事を言うも「あら、口に合わなんだな、ごめんねぇ。次は美味しいもの作るけんな、何がええかな?」と微笑んだ。

私もこういう環境だと知っててここに来てる。なので、アレコレ言わない。時間もたっぷりある。一緒に散歩に出掛け、公園に行き、買い物のお使いに一緒に行った。のんびりと。

下の子達は祖母や叔母や叔父が代わる代わる見ててくれていた。どうしてもママがいいと言えば、誰かが私達について来てサポートしてくれていた。

すると。
一週間で1号が変わった。

昔のように無邪気になり、赤ちゃん返りをおもん存分にし、素直になり、とても安定した。


結局、二週間ほどお世話になった。

そして戻ると旦那が1号の変わりように本当に喜び、そして驚き、謝った。

義実家の家族へ、旦那はチクリと言った。
1号、変わったやろ?なんでかわかるか?と。


この時、私は強く心に決めた。
必ず、必ず、必ず!!義実家との同居を解消し、元住んでた所に帰る!!!と。


そして間も無く転機が訪れ、現在に至る。

子供を育てるのは、親の努力だけでは足りない。たくさんの温かいサポートが必要不可欠だと、心から実感した体験だった。


1号は、いまでもやんちゃで男勝りではあるけれど、とっても素直で優しく正義感の強いとってもいい子に育ってる。もちろん、宿題はしないし、忘れ物も多い、けど堂々と忘れていっては先生に叱られて、昔のようにテヘっと愛嬌たっぷりの笑顔で年頃らしくはにかみながら「ごめんなさーい」と言っているそうだ。

私のいい子の定義は、わりとアバウトだけど、それでいいと思ってる。
だって、あんな辛い体験したら、誰だって戻りたくはない。


細かいことで怒って、また1号が病み、私も病むくらいなら、情緒が安定して、多少の問題は目をつむり、得意なところだけ褒めてあげたい。

もうコリゴリ!!
あの当時を思い出すだけで苦しくなる。
あんな折半詰まった精神状態に居続けていたら、きっと私は1号と無理心中してたか、義実家の家族を抹殺してたと思う。

大事件になる前に、脱出できて本当に良かった。

という、重たい話を思い出したのでした(笑)

4年前、そうか。もうあれから4年も経ったのか。いや、まだ4年しか経ってないのか。


よくここまで子供達は健やかに育ってくれたもんだな。つくづく今の環境に感謝するわ。子育てしやすい支援がたくさんつまった温かいこの地域で生活できて本当に有難い。

これも、毎日遅くまで頑張って稼いできてる旦那のおかげでもありますね(笑)

私も楽しく働け、長いブランクを良しとし受け入れ、3人の子育てにも理解のある会社とお客様に恵まれ、私はラッキーですね。


誰もが、私が当然のように受けている支援を受けられる世の中に。本当に早くなってもらいたいなと、思うんですよ。


祖母の家で受けた寛容と優しさのある、今住む地域は、地域で心がけている。本当に有難い限りです。

と、まったく3.11とは関係ない4年前の個人的な話でした!!

おしまい!